タイタニック号唯一の日本人 細野正文の不運とは?生還その後を調査!
細野正文さんは日本人でただ一人の日本人乗客でした。
1912年、ロシアのサンクトペテルブルクからの帰りにタイタニックに乗船し、事故にあいます。
細野正文さんは無事に日本に帰り着きました。
ですが間違った情報が伝わっていて、その後の人生はとても辛いものになったようです。
あの大変な事故から無事に日本まで帰り着いたのに、喜ぶことも難しい当時の状況は今とは違ったのでしょうか?
タイタニック号唯一の日本人 細野正文の不運とは?生還その後を調査!
細野正文タイタニック号唯一の日本人として生還したことが不運となった!
https://twitter.com/KirinoR1/status/1630472961223434240?s=20
細野さんは誤解されたまま、一言も弁解することなくその生涯を終えられたようです。
日本に戻ってからはそれまでの仕事を辞め、転職されています。
ご家族も肩身の狭い思いをされたようでした。
後に名誉は回復されましたが、ちょっとやりきれません。
細野正文の悪いうわさ
成人男性である細野氏がなぜ無事に帰ってこられたのか、女子供を押しのけて救命ボートに乗り込んだのかと疑われたのです。
タイタニック号では女子供を優先してボートに乗せて脱出していきました。
成人男性はほとんどのせてもらえなかったようで、助かった男性はあまり良い顔はされなかった可能性が高いです。
そして無事に日本へ帰れることになった細野氏ですが、成人男性が助かったことがおかしいと思われたようです。
他の人を押しのけて自分だけ助かったのではないか、男らしくない、醜い行為だと噂になります。
船が沈没するという大混乱の中で、正確な記録など確認する余裕はなく噂を否定する根拠がありませんでした。
更に間の悪いことに、態度の悪い人アジア人と同じボートに乗り合わせた人が、その人を細野正文さんと思い込みそのまま世間に発表してしまったのです。
その噂も訂正できず、また細野氏も弁明などは一切されなかったようで悪いうわさはそのまま事実として浸透してしまうのでした。
名誉が回復するまで58年
細野氏の悪いうわさが間違いだったとわかったのは、彼の死後58年経ってからでした。
タイタニック号沈没事故からだと85年かかっています。
そんなにかかった理由の一つは、事故当時は混乱が酷く間違った情報がとびかったことでしょう。
間違っていてもそれを確認することもできなかったようです。
もう一つは、細野氏が乗ったボートの記録には「アルメニア人男性」として残っていたそうで、日本人だと思われていなかった?
理由は、細野氏が口ひげを生やしていたので日本人だと思われず、アルメニア人だと勘違いされたのではないかと言われています。
1997年にタイタニック号のことが映画化されるにあたって、いろいろ調べられた結果わかったことでした。
細野正文の経歴
1870年に新潟県、現在の上越市に豪農の4男に生まれます。
その後、東京高等商業学校(現在の一橋大学)本科卒業後、三菱合資会社を経て逓信省に入省し鉄道作業局に配属。
勉強を重ね、東京外語学校(現在の東京外語大学)ロシア語科でロシア語を学びます。
1910年には、第1回鉄道院在外研究員としてロシアに1年間留学することが決定。
1912年、留学の帰りにタイタニック号の事件に巻き込まれながらもなんとか生還します。
しかしその後に出てきた悪いうわさを気にした鉄道院が細野氏を格下げし、最後には鉄道事務官を退官。
岩倉鉄道学校で勤務されますが、自分の悪いうわさについては全く取り合わなかったそうです。
自分が生きて帰ったのだからいいではないか、と言われていたとか。
1939年68歳没
細野正文タイタニック号唯一の日本人になった理由を調査!
#ワールド極限ミステリー#タイタニック#タイタニック号
細野正文さんをクローズアップ唯一の日本人乗客ですね(未正確な情報ですと勘違いされた日本人密航者が生存者の証言から多く出てきますが…) pic.twitter.com/AZ4sMPbTFw
— 敷島_金鵄@侏儒の艦これ勢 (@551_confucius) March 15, 2023
映画タイタニックで描かれたように、大変な海難事故だった沈没現場から生きて帰ってきた日本人ということで注目されました。
当時の日本は明治45年、大正元年です。
一般の人は海外へ行くことなどなかった時代に留学できるくらいに優秀な方だったんでしょう。
それが今回の不運の始まりでした。
タイタニック号に乗った理由
細野氏は1912年当時、鉄道院在外研究員としてロシアに留学していて、その帰りにタイタニック号に乗りました。
タイタニックに乗ることを進めてきたのは、木下俶夫だとされています。
木下氏は細野氏と同じ鉄道官僚で、現在の日本交通公社の生みの親で熱心に日本の観光化をすすめていました。
自費でアメリカ留学をしたり官費留学で欧州へ行ったりしています。
そんな木下氏からタイタニックをすすめられた細野氏は「せっかくだから」と乗船を決めたのでしょう。
ロシア留学した先はサンクトペテルブルクで、ロシアの中でも西の端にありヨーロッパ経由で帰る方がよかったようです。
世界最大の豪華客船と話題になっていた船に乗れる機会などそうあるものではありません。
きっととても楽しみにしながら乗ったことでしょう。
タイタニック号に乗船後の様子
3等客室のチケットを手に乗り込んだタイタニック号は、当時世界最大の豪華客船と歌われていました。
1等客室はとても豪華だったようですが、3等はチケット代もそれほど高くはなかったようです。
当時の階級社会をそのまま再現したかのような船室の分け方は、今でも時々話題になりますね。
浮沈船ともいわれていて、絶対に沈まない船だと誰もが信じて疑わなかったようでした。
細野氏は乗り込んでから家族に手紙を書いたりしながら過ごしていたようです。
氷山にぶつかった後、船員に避難を促されても乗客はのんびりしたものだった様子が細野氏の手記からもうかがうことができます。
デッキにいると寒いので船内に戻っていく乗客が多かった様子は、映画でも描かれていました。
ぶつかった氷山のかけらで遊ぶ乗客の姿もあったようです。
本当に誰もが沈まないと考えていたので、よけいにパニックが起こったでしょう。
避難した状況
タイタニックで救命ボートへの乗り込みが始まった時、女性と子供が優先され男性は後にするという選択がされていました。
我先にと乗り込もうとする男性は推し戻されていたようです。
細野氏はそのことに抵抗しなかったようで、のちに発見された手記にも生きて帰れないだろうと覚悟を決めた記述が見つかっています。
そんな中で最後のボートに2席空きがあると航海士が叫んだのを聞き、さらに近くにいた男性が1人飛び乗りました。
それを見た細野氏はもう1人乗れるとみて、決死の覚悟でボートに飛び乗ったと手記にはあります。
そのままボートは海に降ろされ、脱出していきました。
そして無事に日本へ帰れることになったのです。
最初はみな歓迎してくれていたようですが、徐々に成人男性が助かったことがおかしいと思われ始めました。
そこから細野氏をはじめ、世界中で生還した男性陣はバッシングされ始めたようです。
まとめ
タイタニック号唯一の日本人 細野正文の不運とは?生還その後を調査!
いかがでしたか?
現在のように情報伝達方法が発達していなかったころ、一度悪いうわさが流れると挽回するのは難しかったでしょう。
でも、悪いうわさはすぐに広がってしまうのは不思議としか言いようがありません。
100年たった今でも語り継がれるくらいの大事故です。
当時を生きていた人たちにとってはもっと大きな話題となっていたでしょう。
そんな中で生き残りと言われて人生を終えた細野正文さんはどんなことを思っていたのでしょうか?
タイタニック号唯一の日本人 細野正文の不運とは?生還その後を調査!
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。